鎏金獣帯鏡から見える球磨盆地

                        鎏金獣帯鏡から見える球磨盆地
   景行大王の巡幸経路を訪れて最も気になったのが、球磨盆地における才園古墳(熊本県球磨郡あさぎり町)出土の銅鏡(国指定重要文化財)である。『鎏金獣帯鏡』とも呼ばれるこの鏡は、背面全体に分厚く金が鍍金(メッキ)された小型の舶載(中国から輸入)鏡であるが、このように鍍金された鏡は、これまで列島全体で福岡、愛媛、岐阜の 3例しか出土例なく非常に貴重な鏡ある。このような鏡がなぜ九州南部の球磨盆地から出土したのか、それも小円墳からである事を考えると非常に興味深い鏡である。そのため、この鏡のルーツを明らかにしたいという欲求に惹かれ、鎏金獣帯鏡について考察することにした。

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         才園古墳出土の鎏金獣帯鏡(熊本博物館)

        #才園古墳 #亀塚古墳群 #地下式古墳 #鎏金獣帯鏡

 

1.球磨盆地の地理的条件
   球磨盆地は、熊本県南部に位置し、東西約30キロメートル、南北約15キロメートルの広大な盆地の中央を球磨川が流れる。このような盆地において、弥生時代後期(約1800年前)から古墳時代前期にかけての、ほとんどの遺跡から球磨郡免田町に由来する、独特の形をした免田式土器が出土し、盆地内の多くの市町村の資料室に展示されている。               

 そしてこの土器は球磨盆地以外でも盛んに用いられ、よく見ると訪れた八代市宇城市を始めとした資料館のほとんどに、『弥生時代の土器』と説明書きにある壺型土器のほとんどが、実は免田式土器そのものであることに気づいた。説明では文では、熊本県内にとどまらず、北の筑後地域から南は南九州及び遠くは沖縄まで達しているようである。
 このような土器の分布は広範囲な地域間交流があったことを示しており、盆地という一見閉鎖的とも思える球磨盆地においても、各地と交流していた様子がうかがえ、盆地から各地に向かう移動経路として、よく知られているのが日本書紀の景行大王の巡幸に伴う移動経路であろう。

 南九州から球磨盆地に入るには、宮崎県小林市(夷守)から岩瀬川を遡り、白髪岳の麓を通過して錦町出るコースを採らなければ、球磨盆地に入ることができなかった。現在でも、人吉市えびの市を結ぶ国道221号線や九州縦貫自動車道は、トンネルにより結ばれ崖のような加久藤峠は難所である。

 また北に向かうには、盆地中央部の錦町辺りから五木村を経て、宮原町(八代市)や、あるいは五木から山中をそのまま北上し、山鹿市に繋がる道が存在した。そのため、人吉駅裏の崖に掘られた、大村横穴と山鹿市の鍋田横穴群の装飾模様に共通点が見られるが、盆地から直接移動できなかった球磨川下流の八代に横穴は見られない。
 八代から球磨川沿に人吉に繋がるルートは、切り立った山襞を通過するのはに難しく、後の律令時代になり日向国府が西都原に置かれると、太宰府とを繋ぐ最短コースの宿泊地として人吉が栄え、そのため宿舎の『舎』の字を二つに分け、『人+𠮷』の地名が興ったとの説もある。

 そのコースとして、太宰府から陸路で南下し有明海に出ると、そこから再び船で一路南下し、八代海に面した佐敷や田浦に上陸する。そこから内陸部に入り、球磨川沿いの海路(かいじ)辺りに出て、そこから球磨川に沿って人吉、そして湯前から西都原に向かうコースである。

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     白髪岳                           五木の風景              球磨川あさぎり町

2.古墳から見た球磨盆地内の状況
 球磨盆地には、南九州の墓制である地下式古墳を始め、円墳や前方後円墳あるいは横穴など様々であり、多様な文化を受け入れる、懐の広い人々が暮らし地域でもあった。

 地下式古墳
 鎏金獣帯鏡が出土した才園古墳(西暦600年前後)が築かれるまでの、球磨盆地における墓制について見てみると、亀塚古墳群(五世紀中頃~六世紀初)が築かれるまで、地下式板石積石室墓(熊襲の墓制)および地下式横穴墓(隼人の墓制)と呼ばれる、南九州特有の地下式古墳と同様な墓制であった。

 従って、球磨盆地にも熊襲、隼人と呼ばれる人々が住み、四世紀に出現する板地下式板石積石室墓による集団墓が、球磨川北岸を中心に新深田遺跡(あさぎり町)や荒毛遺跡(人吉市下原田町)が見つかっている。その中でも荒毛遺跡では150基ほどの板地下式板石積石室墓による集団墓であった。

 次に、近年九州高速道路の建設に伴い、球磨川の南側に位置し低地帯を望む台地上の、天道ヶ尾遺跡(現在消滅)で、五世紀から築かれ始める地下式横穴墓が見つかった。この事は、五世紀の、熊襲の後裔である隼人の時代になると、球磨川の北側から、火国の勢力が球磨盆地内に入り込み、隼人を球磨川以南に押し返したものと考えられる。

 そのため人吉・球磨盆地における神社の配置を見ると、球磨川を挟んで北側が火国である阿蘇系神社、南側は襲国で霧島系神社とはっきり分かれており、球磨川は両国の国境であった。
 これまで盆地内に地下式横穴墓はないと言われてきたが、今回の天道ヶ尾遺跡の発見によりその存在が明らかになった。しかし地下式横穴墓は地下に設置されるため、地上に造られる墳墓に比べ墳丘などの目印がなく、発見されることもなかった。しかし今回見つかったことにより今後の地下式横穴墓の発見が期待されたが、その後未だに発見にいたっていない。

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    地下式板石積石室墓      東二原地下式横穴墓群    免田式土器           

 大村横穴群         (小林市)   
  人吉駅裏の断崖には、800mにわたって26基の横穴が掘られ、その入り口には掲載した写真の様に多くの浮き彫りが刻まれている。内部は家屋を内側から見たように築かれ、追葬ができるようになっている。そして大村横穴と菊池川中流域に位置する、山鹿市の鍋田横穴群の装飾模様に、共通点が見られることから両地域に交流があったことを示している。

 これらの横穴は、六世紀から七世紀初頭にかけての墓であり、盗掘を防ぐため当時は崖下を球磨川が流れ、川を隔てた崖に横穴を穿ったのである。出土品については、一部の土器などを除いてほとんど遺されていないが、鉄道線路の敷設中に、八世紀前半代の北海道・東北地方で多く出土し、蝦夷が使用していた蕨手刀(わらびてとう)が見つかっている。そして川を隔て横穴群の墓守がいた所が、現在の青井神社であり、青は墓守がいた地名である。(『人吉・球磨の歴史』熊本県の歴史シリーズより) 

 話は変わるが、今回の球磨川氾濫による大水害の惨状を、上空からのTVで目の当たりにしたとき、あっと息を飲んだ。かつて一時期過をごした町である。人吉の町が湖になり、特に大村古墳群のある崖下から青井神社にかけての一帯が最も浸水よる水位が大きく、改めてかつて崖下を球磨川が流れていたことを思い起こさせた。

 そして『大村古墳群』の存在する地名が、大村であることからから『多の村』即ち『多氏の村』と考えられている。多氏は阿蘇や諏訪盆地といった内陸部で未開の低湿地帯を、水田地帯へと甦らせた一族であり、阿蘇も球磨も同様な盆地であることから、球磨盆地についても多氏の存在が考えられる。なお多氏は古事記で知られる太安万侶を排出した古代豪族であるが、火国が発祥の地とも考えられている。

 ところで多氏による、六世紀始の人吉盆地への移動理由として、日本書紀に『筑紫磐井の乱』(527年)において、火君は磐井に加担したように記されているが、実際には乱後、火君は北に向かっては糸島半島へ、また南の北薩地方へと進出しているのである。この様な動きの一環として、本願が火国とされる多氏が人吉盆地に入ってきたのであろう。 

                  大村横穴群    

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         蕨(わらび)手刀   浮き彫り壁画     横穴群

 亀塚古墳群

 地下式古墳の次に現れるのが、錦町西に築かれた前方後円墳の亀塚古墳群である。大和政権がこだわり続けた墳墓形式で、五世紀中から六世紀前半にかけ、三基(三代)にわたり築かれ、初めて盆地内に大和王権が入ってきたことを示している。
 そして亀塚古墳が、国境である球磨川の南側に位置する事から、襲国の勢力により前方後円墳が造られたことが分かる。大和王権下にあった襲国の勢力が、景行天皇熊襲征伐における巡幸経路と同様に、小林(夷守)方面から岩瀬川を遡り白髪岳の麓を通過して、球磨盆地に入り込み、その入り口に位置する錦町西に、球磨盆地に初めての前方後円墳の亀塚古墳を築いたのである。
 一号墳は全長45m、後円部の直径25m、高さ3.5m、墳丘が平らで低く、前方部が大きい。二号墳は全長45m、後円部の直径33m、高さ3.5m、後円部に比べ前方部が小さく一号墳同様に墳丘が平らで低い。三号墳は全長50m、後円部の直径25m、高さ3.5m、と推定され、変形が著しく円墳二基に分断されている。

 このような前方後円墳は、球磨盆地内を含めた南九州中央部において、亀塚古墳群以外に存在せず、亀塚古墳群はその南限でもある。そして広い球磨盆地において、円墳や前方後円墳と言った高塚古墳は錦町から、あさぎり町にかけ球磨川の北側のみに存在し、それ以外に見ることはない。

 ところが亀塚古墳は前方後円墳と言っても在地性が強く、墳丘の高さや墳形が西都原古墳群に代表されるような、ある一定の企画に基づいた近畿地方のそれではなく、これらの勢力とは一線を画すものである。しかし近くで作業をしていた古老の、『今はこんなにしているが、自分たちの子供の頃は、後ろ(前方部か)が綺麗に下がって、美しい形をしていた』との話しを聞くと、現在の墳丘は後生の著しい改変による所が大きいのではと感じた。  

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      亀塚古墳群(1号墳)     亀塚古墳群(2号墳)    亀塚古墳群(3号墳)

 亀塚古墳の被葬者はどこから来たか
 ところで近年、球磨盆地から加久藤峠を隔てた、宮崎県えびの市の島内地下式横穴墓群(五世紀末~六世紀初)から、大和王権との強い繋がりを物語るのに十分な、武器類や甲冑あるいは馬具など、豪華な副葬品を伴った墓が見つかった。ところが山一つ隔てた球磨盆地では、この時期既に前方後円墳の亀塚古墳群(五世紀中から六世紀前半)が築かれているのである。    

 この事は、同じ大和政権と関係を持ちながら、南九州内陸部において亀塚以外に前方後円墳が存在せず、墓制の違いからえびの市の島内遺跡をはじめとした内陸部と、亀塚古墳を遺した勢力は別な勢力であった事が考えられる。あえて亀塚古墳の被葬者の故地を求めるなら、鹿児島県霧島市から日置市(阿多隼人)にかけてが考えられる。 

 球磨盆地は周りの小林やえびの地域に比べ二倍の面積を有する、東西約30キロメートル、南北約15キロメートルの範囲に広がる盆地である。九州北部と南部あるいは東側と西側を移動する場合、地政学上これらの地域を結ぶ要となる地域であるため、ここを大和王権が押さえようとしたのが亀塚古墳の出現である。

 その際に南から球磨盆地に入ってきており、この侵入経路が日本書紀に記された、景行大王の熊襲遠征における巡幸経路と重なっているのは興味深い。なお小林から白髪岳の麓を越えて球磨盆地に入る場合、岩瀬川を遡るまでは間違いない様であるが、その先については錦町のどこに出てきたのかはっきりしなかった。しかし地元の古老の話によると、かつて錦町木上から宮崎県の小林に通じる古道があったとの話を聞き、挿絵の『盆地内への侵入ルート図』を書き換えた。

 そして洋の東西を問わず、新たに盆地内へ侵入してきた軍事集団は、ほとんどが男であり、在住の首長の娘をはじめ地元の女を娶ることにより、在地勢力との融和を図ったのであろう。この様に盆地に侵入してきた集団とは、軍事的色彩の強い氏族考えられる。

               

  別府原地下式板石積石室墓  島内地下式横      盆地への侵入ルート

3.亀塚古墳の被葬者とは
 では球磨盆地に前方後円墳群を築造した、軍事的色彩の強い集団とは一体何者であろうか。ところで十世紀の『和名類聚抄』に、肥後国球磨郡久米郷(熊本県球磨郡多良木町久米)が記され、古代豪族の久米氏発祥地の一つと考えられている。

 そして大和王権の軍事部門を担う程の軍事氏族を球磨盆地に求めるなら、大和政権がこだわり続けた前方後円墳を、三基三代にわたり築いた勢力以外に見つからず、従って亀塚を築いたのは久米一族であろう。また和名類聚抄に記された久米郷の位置は、現在の球磨川以南の多良木町湯前町や岡原の一部を含む地域を指し、この地域を久米氏が開発したことにより久米の地名となった。そして、クメ(久米)は、クマ(球磨)やクモ(蜘蛛)に音変化することから、元々はクマではなくクメと呼ばれていたとも考えられる。

 ところで、日本書紀の景行紀に、『熊県に到着すると、そこに熊津彦という二人の兄弟がいた。天皇はまず兄熊を召し出されると、すぐに使者に従って参上した。次に弟熊を召し出されたが、参上しなかったので兵を遣わし誅殺された。』といかにも素っ気ない記述となっている。
 そこで、この兄弟に日向神話の海幸彦と山幸彦を重ねると、球磨盆地に侵入してきた勢力の姿が見えてくる。即ち、兄熊(海幸彦)は『海の民』であり、弟熊(山幸彦)を『山の民』と考えると、新たな盆地内への侵入者により、それまでの兄熊(海幸彦)と、弟熊(山幸彦)との既存の関係に変化をもたらした。

 すなわち、弟熊(山幸彦)が殺されたということは、盆地内で暮らしていた山の民が、新たな支配者によって排除された事を示しており、そのため新たな支配者とは、海の民であることが考えられる。また古事記に隼人の祖は海幸彦と記されていることからも、隼人族あるいは隼人を配下に置く海人族の久米氏であろう。

 このとき排除された山の民に関して、景行大王が熊県の次に巡幸する水島の記事に、『山部阿弭古(やまべのあびこ)が祖(をや)小左(おひだり)を召して、冷水を献上されられた』とあり、山部阿弭古はおそらく熊県における、山の民のであった弟熊(山幸彦)の一族で、実際に山の民が南九州の山間部にいた証拠とする説もある。

 大和王権の球磨盆地進入に伴い、県が設置されたのであろうが『県主』が居たと考えられるのが、球磨で唯一の前方後円墳が遺されている錦町西が想定される。そして、この亀塚古墳に葬られた人物こそ、県主となり球磨盆地に君臨した新たな支配者であろう。この亀塚古墳(1号墳)から直線距離で680mの位置に西村神社があり、神社の古称は『大王神社』といかにも古代の支配者を想像させる。

               

     西村神社(大王神社)              水島                         隼人の盾

 久米氏が、あさぎり町に移動した理由。
 ところで錦町で前方後円墳を築くほどの豪族が、なぜ錦町の亀塚古墳から東に直線距離で5.2㎞離れた、あさぎり町に小円墳を築かなければならなかったか疑問が残る。これだけの実力者が移動するにはそれだけの理由が必要であろう。

 まず考えられるのが、年代的に同時代の『筑紫磐井の乱』(527年)である。錦町の前方後円墳群が築造停止した6世紀始めに、北部九州で筑紫磐井大和王権に弓引く、磐井の乱と呼ばれる内乱が勃発している。この時、久米氏(久米一族)も磐井側に付いていたなら、敗戦によりあさぎり町への移動を余儀なくされた事は十分考えられる。

 また出土品から、首長墓である前方後円墳に葬られる程の実力を持ちながら、大和王権によりその築造が許されず、才園古墳の様な小円墳に葬られたのであろうか。ところでこの時期、久米氏の惣領である近畿の久米氏も、時を同じくして歴史上から姿を消しており、久米一族に一体何が起こったのだろうか。

 次に考えられるのが、人吉盆地にいた多氏による球磨盆地への進出である。前述した様に、JR人吉駅の裏の断崖に、6世紀から7世紀初めにかけて大村古墳群を遺した勢力であるが、大和王権を後ろ盾とする多氏による球磨盆地への進出である。『磐井の乱』を期に人吉(大村)に入植し、その後次第に領域を拡大し錦町に触手を伸ばしたとき、前方後円墳を築いた久米氏との間に軋轢を生じるようになった。

 このことが、あさぎり町への移動を決意させ、その証が装飾を持つ横穴(京ヶ峰横穴群)の存在である。錦町に入ってすぐの球磨川に沿った崖に三基の横穴が築かれ、久米氏の亀塚古墳とは直線距離で2.8㎞しか離れておらず、明らかに亀塚古墳を意識した横穴の配置である。この京ヶ峰横穴群の築造時期が、久米氏のあさぎり町への移動前か後かは不明であるが、いずれにせよ多氏による球磨盆地へ進出しその国境を示すモニュメントであった。

なお、京ヶ峰横穴群は横穴の数は少ないが、浮き彫りで掘られた靭(矢筒)は赤色顔料で彩色まで施され、保存の良い状態で遺されている。   

                 

   石人石馬(磐井の寿墓)    京ヶ峰横穴                  入り口の装飾

 4.才園古墳
 球磨川左岸の崖上に位置し古くから四ツ塚と呼ばれ、元は四基の円墳からなる古墳群であったが、古墳の所在地が免田町(現あさぎり町)才園であることから才園古墳と呼ばれる様になった。しかし現在残っているのは円墳一基と、石室が露出し石組みだけとなった才園古墳(二号墳)が民家の庭先に残されているだけである。

 凝灰岩の巨石を箱形に組み合わせた、横穴式古墳の石室の石組は、現在でも石室内や羨道部に赤く塗られた丹の色がよくの残っている。玄室の奥行き2.22m、幅2.12m、高さ1.20mであるが天井石を失っており、破壊前の古墳の大きさは直径15m、高さ3.5m程度と推定される。古墳の築造年代は、後期古墳の特徴である多くの須恵器や土師器を副葬し、その様式から西暦600年前後(古墳時代後期~晩期)に築造された円墳と考えられている。 

 才園古墳からの出土品として、鏡の他に多くの馬具、玉類などの装身具、直刀、刀子、土器類など全体で130点以上の遺物が出土し、これだけの副葬品を有するなら、一般的に前方後円墳に葬られる程の有力者であったことが想定される。しかし出土したのはさほど大きくない円墳からであり、従来の大和王権の規定におさまらない勢力が存在することを示している。

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     才園古墳全景       石室の巨石組   石室内に塗られた丹

才園古墳からの出土品

 以下、出土品については『免田町の歴史』による。才園古墳の場合、多くの馬具類を副葬していた事に特徴があり、轡(くつわ)四種四組八個、杏葉四種十二個、雲珠五種二十八個、全部で八セットの馬具に相当するが、鞍金具(鞍が出土していない)、鐙(あぶみ)など不足する馬具もある。これは全国でも最多クラスの馬具の出土量であり、なかでも金メッキを用いた、杏葉や雲珠といった製品は、技術的に盆地内での製作は無理であることから、直接朝鮮半島から入手したとも考えられる。

 これらの出土品から才園古墳の被葬者は、自身の馬を各種の装飾品で飾り立てることに拘りをみせ、馬に乗ることを好む人物であったと思われる。古墳時代後期になると、それまでの権威を示すための武器や鏡に替わり、自身を飾り立てる威信財を権威の象徴とするようになり、そのため朝鮮半島からの豪華な馬具を必要としたのであろう。

 大和政権は、五世紀には朝鮮半島へ、鉄や先端技術と言った富を求めて軍事出兵しており、五世紀中頃に錦町に亀塚古墳を造った久米氏も、大和王権と共に朝鮮半島に渡り、これらの馬具類を手に入れたと考えられる。その後、馬具類は才園古墳の被葬者に伝わり、さらに被葬者自身の馬具も一緒に副葬されたため、才園古墳から出土した馬具類には年代的に幅があり、この馬具と同様な類似品が、五世紀後半から七世紀代(飛鳥時代)にかけての古墳から出土したものに見らる。

 このように才園古墳の副葬品は、長い期間にわたって一つの古墳に追加合葬されていったのではなく、これまでの宝器がある時期に一斉に副葬されたと考えられ、そのため副葬品の大量出土となったのである。

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     轡、辻金具    馬鈴、辻金具、杏葉        馬具の名称

 その他、鉄製の大鋏(全長37.3㎝)は、日本式の握り鋏(はさみ)あるが、その大きさから人に用いたのではなく、馬の威容を整えるためのもので、立髪や尾を切り縮めたりする際に用いられ、朝鮮半島では多く出土しているが列島内では珍しい。また鉄玲については、大小の二種9個が出土し、馬の胸や尻付近に装着し、馬を飾るための鈴と考え馬具に含まれる遺物である。

 これらの副葬品に対し、金環(耳環)は二対四個出土(後に一個行方不明)していることから、二体の人物が追加合葬され、この被葬者は大和王権とも良好な関係を持っていたと考えられる。これらの出土品は才園古墳の被葬者を知る上で、重要な手掛かりを与えてくれる古墳であり、これら才園古墳からの出土品は熊本博物館に展示されており、掲載した写真も博物館を訪れたときのものである。  

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       大形の鋏         鉄刀       金環(耳環)  

5.才園古墳出土の鎏金獣帯鏡

 そして 才園古墳で特筆すべきは、出土した国指定重要文化財の銅鏡である。『鍍金画文帯求心式神獣鏡』や『鎏金獣帯鏡(りゅうきんじゅうたいきょう)』とも呼ばれるこの鏡は、径14.7cm、の白銅鏡の背面全体に分厚く金が鍍金(メッキ)された小型の舶載(中国から輸入)鏡である。このような鍍金された鏡は、これまで列島全体で福岡、愛媛、岐阜の 3例しか出土例なく非常に貴重な鏡である。

            鎏金獣帯鏡が出土した古墳
一貴山銚子塚古墳    前方後円墳    4世紀後半    103m     福岡県糸島市二丈田中
   城塚古墳        前方後円墳    6世紀初頭      78m     岐阜県大野町野
   才園古墳                円墳            7世紀前後      15m    熊本県球磨郡あさぎり町免田西

 これらの鎏金獣帯鏡が出土した古墳は、古墳才園古墳を除き、何れもその地域を代表する首長墓としての前方後円墳である。 そして『古墳の大きさは、葬られた人物の生前における、権力の大きさに比例する』という大いなる約束に従えば、才園古墳をどう捉えればよいのであろうか。

 これら古墳は、築造年代がそれぞれ1世紀づつ開きがあり、また築造時期が早いほど古墳の規模も大きくなっていることから、才園古墳が築かれた時期になると、鏡も以前のような霊力や権威の象徴といった意味合いも薄れ、そのため古墳に副葬されたとも考えられる。

 なお下に掲載した銅鏡については、才園古墳出土以外『アメーバーブログ泉城の古代日記』からのものである。    

        

   一貴山銚子塚古墳出土    城塚古墳出土      才園古墳出土

  (京都大学総合博物館蔵)  (五島美術館蔵)  (熊本県立博物館蔵)
  

6.鎏金獣帯鏡はどこから来たのか
  鎏金獣帯鏡について、才園古墳の案内板に、『中国の江南地方で製作されたもので、それも紹興あたりで作られた可能性が高い。その理由として、この地方は銅鉱石・鉱石が多く採掘され、青銅文化と共に鋳造技術が進んでいたこと。製作時期は三世紀までさかのぼる。この時代は日本では弥生時代の末期、つまり邪馬台国と狗奴国の対立時代であり、この鏡の所有者と呉の国との交流による舶載鏡である可能性が極めて高いとされる。』
 この説明は、戦前に発表された仮設に、『久米は球磨であり、久米氏とは球磨人であり肥人のことである。また久米氏は南九州の大部族である肥人にして、魏志倭人伝に記された狗奴国とは、久米氏の本拠地である。』この仮説は、現在でも地域の歴史観に大きな影響を与えているが、肥人(こまひと)と球磨人あるいは熊襲・隼人と言った南九州の部族を全て同一視しており、地域の状況を理解してないようである。 

 このような案内板の説明や仮説で疑問に思うのは、人吉・球磨地方を魏志倭人伝の言う「狗奴国(くなこく)」の候補地と考えるなら、3世紀の球磨は邪馬台国と対立しており、女王卑弥呼に匹敵するくらいの力をもった国である。その後、卑弥呼が亡くなると『卑弥呼以って死す。塚を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人。』と記されている。

 この記述から、狗奴国王墓を人吉・球磨地方に求めるなら、径百余歩と記された弥呼の墓(箸墓古墳とも)に匹敵する様なものは見当たらず、この地域における墓制は、五世紀中頃に亀塚(前方後円墳)が出現するまで、南九州と同じ地下式古墳であった。そう考えると、そもそも球磨盆地を狗奴国に比定すること自体に無理があるのではなかろうか。

 また邪馬台国の女王が魏の皇帝から銅鏡(三角縁神獣鏡?)百枚もらったのに対し、狗奴国の男王も邪馬台国に対抗上、中国南部の呉を後ろ盾とし、女王がもらった鏡に負けないくらいの鏡(鍍金獣帯鏡)を下賜された。そう考えるなら三世紀の鏡が、西暦600年前後に築造された才園古墳から出土したのであるから、鏡の製作年代と古墳に副葬されるまでの間に300年間の開きがあり、このような長期間の伝世が可能であっただろうか。

 これについて、かつて考古学会の重鎮であった、森浩一氏によると、『伝世という考え方は考古学を危うくするものであり、出土物(鏡)は発見された遺跡(古墳)と同時代に使用されていた、と考えるのが真面な考え方であろう。』言っており、一世代か二世代の伝世ならまだしも、300年間に及ぶ伝世となると時代を調整するための奇弁にさえ思えてくる。

 従って、鍍金獣帯鏡は呉から下賜されたのではなく三世紀の鏡を元に、後の時代に踏み返して製作された鏡であり、製作時期も才園古墳が築造された時期と大きく離れておらず、それを他集団がら入手し副葬したと考えるのが妥当なように思える。   

                    

                箸墓古墳     三角縁神獣鏡                         可愛山陵
7.鎏金神獣鏡と大和王権
 そこで才園古墳出土の鎏金獣帯鏡について、中国の鏡の研究者である王士倫氏によると、三国時代(3世紀)に中国の江南地方(呉の領域)でつくられたものという。そして鍍金鏡は中国でもたいへん貴重なもので、このような鎏金神獣鏡は中国では後漢時代(25-195)や六朝時代(220-580)に見られる特徴である。そのため中国で三世紀ごろの鏡を元に、五世紀代に鋳型をつくり新たに製作された踏み返し鏡である。それが球磨郡もたらされたとの見解である。

 彼の考えに従うと、五世紀に作られた鏡であるから、魏志倭人伝の記事にとらわれることなく、才園古墳の築造年代とも近づき、伝世鏡と言った考えらにとらわれることもない。そうすると大和王権との関係で考える必要があり、大和から鎏金獣帯鏡を与えられたとすると、この時期に球磨盆地でこれだけの扱いを受けとすれば、亀塚古墳(五世紀中頃から六世紀初)に葬られた、大和の軍事部門を司る氏族の久米氏であろう。

 前述したように鎏金獣帯鏡は非常に貴重な鏡で、大和王権の中枢数部で保管していたとっておきの鏡であり、王権にとって重要な相手に対し配布したのであろう。この鏡を渡された古墳の被葬者は、朝鮮半島でその活躍が認められたのか、或いは江田船山古墳(熊本県)の典軍曹人(文官)や稲荷山古墳(埼玉県)の杖刀人(武官)のように大和に出所するなど、大和との深い関係を持つことにより鎏金獣帯鏡を下賜されたのであろう。

                    「古鏡のひみつ」より    

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   鍍金獣帯鏡(呉鏡)     呉の鏡          魏の鏡 

 なお魏の鏡作りの特徴は、前漢後漢の銅鏡のデザインを復古して使用することである。それに対し、呉の鏡は、長江中・下流域を主に盛んに神獣鏡が制作され、神獣は典型的な呉式鏡のデザインモチーフであった。そのため中国の後漢時代や六朝時代に見られる特徴の鎏金神獣鏡が多種多様に製作された。この様な呉で製作された鏡を、五世紀の六朝時代に踏み返したのが、才園古墳から出土した鍍金獣帯境であろう。

 久米氏はその後、この鏡を所持し錦町からあさぎり町方面に本拠地を移動させ、才園古墳群を遺したのである。そして六世紀始めに才園古墳の被葬者と共に、鎏金獣帯鏡も副葬されたのであるが、この時一緒に出土したものに馬具の他、鉄刀剣 大刀、刀、刀子、剣など多くの刀剣類が含まれ、古墳に葬られた人物が武人であったことを示しており、出土品からも軍事氏族としての久米氏が古墳の被葬者として相応しい。

8.中国での新たな鏡の出現

 話は変わるが、戦前の大分県日田市で鉄道敷設工事に伴い、錆び付いた鉄橋が出土した。その後数奇な変遷を経て考古学者の梅原末治氏に渡り、世間の知るところとなった。この鏡、錆を落としてみると表面には金銀で龍が象嵌され、所々に赤や緑の貴石を埋め込み中央に四文字の銘文が刻まれた、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と呼ばれる、これまで出土例がない貴重な鏡であることが解った。

 ところが、近年この鏡と類似の鉄鏡が、中国三国時代の魏の開祖とも言われる、曹操(155-220年)の墓(曹操高陵)から出土したことから注目されることとなった。そして中国湖南省の考古研究院の藩偉斌氏により、日田出土の鏡は邪馬台国女王の卑弥呼がもらった、銅鏡百枚の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。

 また藩氏は、『金や銀の象嵌が施された鏡は王宮関係に限られ、この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式ルートで日本に伝わったものと考えられる。また魏志倭人伝では239年に魏の皇帝から銅鏡百枚を下賜されたとあるが、銅鏡と表現したのは鏡の総称であり、そこに鉄鏡が含まれていても不思議はない。』との説明であった。

 二つの鉄鏡は共に直径が21.1㎝で厚さも2.5㎜と薄く酷似しており、二から三世紀の中国において、御物など最高級に位置づけられる貴重な鏡であるという。もしこの鏡が卑弥呼が下賜されたものであるなら、その南に位置し男王の治める狗奴国は菊池や山鹿あたりとなり、ここには方保田東原遺跡(山鹿市)が存在する。弥生時代後期から古墳時代前期にかけて、県内最大級(35㏊)の集落遺跡であり、鉄器の出土量の多いことで知られる。

 従って、卑弥呼が日田に居たとするなら、これらの地域と球磨盆地とは地理的に離れ過ぎており、球磨を狗奴国と考えるには無理があるように思える。       

                                

        日田出土の鉄鏡   曹操高陵出土の鉄鏡     鉄鏡の出土地点

9.球磨盆地における久米氏の足跡

 久米氏による古墳の築造は、あさぎり町に遺した四基の円墳で終了し、再び球磨盆地を東に移動し多良木町久米を本拠地とした。この時代になると全国的な仏教の普及に伴い、豪族はこれまで古墳に向けていた力を寺院を建立に向けるようになり、そのため久米地域に古墳は遺されていない。

 そして多良木町に移動した久米氏の足跡を見ていくと、久米氏により開発されたことを示す『くめ』の地名の他に、多良木町奥野にある中山観音に、平安時代前期(西暦900年頃)の仏像である聖観音菩薩立像(県指定重要文化財)が遺されており、この仏像から在地豪族である久米氏の名残を感じ取ることができると言われている。

 また球磨郡湯前町に遺されている城泉寺は、久米氏が建立したとも言われ県内最古(貞応年間:1222-1224)の木造建築で、鎌倉仏教文化を代表する古寺である。境内にある塔のうち、七重、九重石塔が国指定重要文化財となっている。そして城泉寺から程遠くない位置に久米熊野座神社が鎮座し、文献上に初めて現れるのが蒙古襲来時における祈祷に関するものであるが、神社の創建はこれより古く遡ることは確かであるが詳しいことは分かっていない。なお、このあたり一帯は寺社仏閣の多い地区であり、久米熊野座神社の裏手の山の山頂に、相良氏により久米城築かれたが、1559年の同族間の内乱である獺野原の戦いで焼失した。なお久米城跡からの眺望は素晴らしく、球磨盆地全体をを見渡すことができ、掲載写真の手前が旧久米村で、正面の山裾を球磨川が流れる。

 これ以外にも時代は下るが、熊本県と宮崎県の県境に位置する市房山の名も、この山が久米市房の狩り場であったことに由来すると伝わる。これらのことから、久米氏が久米で最初に建立した寺院として、中世山城の久米城跡の麓に点在する上記の寺社仏閣等が考えられ、今後発見され明らかにされるであろう。まだこの時代、仏教は豪族を始めとした支配者階級ものであり、一般住民とは無縁のものであった。

 また球磨地方に関する古文書から、時代はさらに下るが12世紀後半における球磨盆地内の有力者として、郡司の須恵氏を中心に、上球磨の久米氏、中球磨の平河氏、下球磨の人吉氏などの在地有力者が知られ、中でも須恵氏と久米氏は球磨生え抜きの土豪であったと考えられている。須恵氏は亀塚古墳の存在する錦町を含め、盆地の中央部を占める有力豪族であり、久米氏についても久米郷を領有し、須恵氏に引けを取らないほどの豪族で、須恵氏と同族であったと考えられている。

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    久米熊野座神社         久米城跡からの眺望        聖観音菩薩像

 最後に

 球磨地域は回りを山々に囲まれた盆地である。そこから、いかにも閉ざされた地域社会を想像しがちであるが、遺された色々な史跡からそこに暮らす人々は、外に目を向けた開放的な地域であった事を遺跡が雄弁に物語っている。そして遺跡は当時の人々から我々へのメッセージであると同時に、我々の歴史観に大きな影響を与え、アイデンティティー(居場所感覚)に資するものである。そのため後の時代に引き継がなければならない、大切なものであることを忘れてはならない。