鎏金獣帯鏡から見える球磨盆地

                        鎏金獣帯鏡から見える球磨盆地
   景行大王の巡幸経路を訪れて最も気になったのが、球磨盆地における才園古墳(熊本県球磨郡あさぎり町)出土の銅鏡(国指定重要文化財)である。『鎏金獣帯鏡』とも呼ばれるこの鏡は、背面全体に分厚く金が鍍金(メッキ)された小型の舶載(中国から輸入)鏡であるが、このように鍍金された鏡は、これまで列島全体で福岡、愛媛、岐阜の 3例しか出土例なく非常に貴重な鏡ある。このような鏡がなぜ九州南部の球磨盆地から出土したのか、それも小円墳からである事を考えると非常に興味深い鏡である。そのため、この鏡のルーツを明らかにしたいという欲求に惹かれ、鎏金獣帯鏡について考察することにした。

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         才園古墳出土の鎏金獣帯鏡(熊本博物館)

       

1.球磨盆地の地理的条件
   球磨盆地は、熊本県南部に位置し、東西約30キロメートル、南北約15キロメートルの広大な盆地の中央を球磨川が流れる。このような盆地において、弥生時代後期(約1800年前)から古墳時代前期にかけての、ほとんどの遺跡から球磨郡免田町に由来する、独特の形をした免田式土器が出土する。そしてこの土器は球磨盆地以外でも盛んに用いられ、その分布範囲も広く熊本県内にとどまらず、北九州や南九州に広がり遠くは沖縄まで達している。
 このような土器の分布は広範囲な地域間交流があったことを示しており、盆地という一見閉鎖的とも思える球磨盆地においても、出土品から各地と交流していた様子がうかがえる。その盆地からの移動経路として、北に向かうには盆地中央部の錦町辺りから五木村を経て、宮原町(八代市)や、あるいは五木から山中をそのまま北上し、山鹿市に繋がる道が存在した。そのため、人吉駅裏の崖に掘られた大村横穴と山鹿市の鍋田横穴群の装飾模様に、共通点が見られるが、盆地から直接移動できなかった、球磨川下流の八代に横穴は見られない。
  次に南から球磨盆地に入るルートとして、日本書紀の景行大王の移動経路から分かるように、宮崎県小林市(夷守)から岩瀬川を遡り、白髪岳の麓を通過して錦町出るコースを採らなければ、球磨盆地に入ることができなかった。現在でも人吉市えびの市を結ぶ国道221号線は、ループ橋とトンネルによらなければ加久藤峠を越える事はできず、当時の人々も崖のような急勾配を越えることはできなかった。
  また八代から球磨川沿に人吉に繋がるルートについても、この間をの国道219号線が繋いでいるが、切り立った山襞を通過するのはに難しく、後の律令時代になり太宰府日向国府が置かれた西都原とを繋ぐ最短コースとして、新たに道が設置された。

 まず太宰府から陸路で南下し有明海に出ると、そこから再び船で一路南下し、八代海に面した佐敷や田浦に上陸する。そこから内陸部に入り、球磨川沿いの海路(かいじ)辺りに出て、そこから球磨川に沿って人吉、そして湯前から西都原に向かうコースである。その中継地に位置する人吉は宿場町として栄え、そのため宿舎の『舎』の字を二つに分け、『人+𠮷』の地名が興ったとの説もある。

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     白髪岳                           五木の風景              球磨川あさぎり町

2.古墳から見た球磨盆地内の状況
 球磨盆地には、南九州の墓制である地下式古墳を始め、円墳や前方後円墳あるいは横穴など様々であり、多様な文化を受け入れる、懐の広い人々が暮らし地域でもあった。

 地下式古墳
 鎏金獣帯鏡が出土した才園古墳が築かれるまでの、球磨盆地における墓制について見てみると、亀塚古墳群(五世紀中頃から六世紀初)が築かれるまで地下式板石積石室墓(熊襲の墓制)および地下式横穴墓(隼人の墓制)と呼ばれる、南九州特有の地下式古墳と同様な墓制であった。従って、球磨盆地には熊襲、隼人と呼ばれる人々が住み、板地下式板石積石室墓は四世紀に出現し、球磨川以北を中心に集団墓が見つかり、特に荒毛遺跡では150基ほどの板地下式板石積石室墓が発見されている。
 次に、近年九州高速道路の建設に伴い、球磨川の南側に位置し、低地帯を望む台地上の「天道ヶ尾遺跡」で、五世紀から築かれ始める地下式横穴墓が見つかった。これは五世紀の、熊襲の後裔である隼人の時代になると、球磨川の北側から、火国の勢力が球磨盆地内に入り込み、隼人を球磨川以南に押し返したものと考えられる。そのため人吉・球磨盆地における神社の配置を見ると、球磨川を挟んで北側が火国である阿蘇系神社、南側は襲国で霧島系神社とはっきり分かれており、この時期球磨川を両国の国境と定たのであろう。
 これまで盆地内に地下式横穴墓はないと言われてきたが今回、人吉市の天道ヶ尾遺跡で初めて見つかり、その存在が明らかになった。しかし地下式横穴墓は、地上に造られる墳墓に比べると墳丘などの目印がなく、地下に設置されるため発見されることもなかったが、今回見つかったことにより今後の地下式横穴墓の発見が期待される。

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   地下式板石積石室墓        地下式横穴墓            免田式土器           

 大村横穴群
  人吉駅裏の断崖には、800mにわたって26基の横穴が掘られ、その入り口には掲載した写真の様に多くの浮き彫りが刻まれている。内部は家屋を内側から見たように築かれ、追葬ができるようになっている。そして大村横穴と菊池川中流域に位置する、山鹿市の鍋田横穴群の装飾模様に、共通点が見られることから両地域に交流があったことを示している。
 これらの横穴は、六世紀から七世紀初頭にかけての墓であり、盗掘を防ぐため当時は崖下を球磨川が流れる崖に横穴を掘った。出土品については、一部の土器などを除いてほとんど遺されていないが、鉄道線路の敷設中に、八世紀前半代の北海道・東北地方で多く出土し、蝦夷が使用していた蕨手刀(わらびてとう)が見つかっている。そして川を隔て横穴群の墓守がいた所が、現在の青井神社であり、青は墓守がいた地名である。
 そして『大村古墳群』の存在する地名が、大村であることからから『多の村』即ち『多氏の村』と考えられている。多氏は阿蘇や諏訪盆地といった内陸部で未開の低湿地帯を、水田地帯へと甦らせた一族であり、阿蘇も球磨も同様な盆地であることから、球磨盆地についても多氏の存在が考えられる。なお多氏は古事記で知られる太安万侶を排出した古代豪族であるが、火国が発祥の地とも考えられている。

                  大村横穴群    

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         蕨(わらび)手刀   浮き彫り壁画     横穴群

 亀塚古墳群

 地下式古墳の次に現れるのが、錦町西に築かれた前方後円墳の亀塚古墳群である。大和政権がこだわり続けた墳墓形式で、五世紀中から六世紀前半にかけ、三基(三代)にわたり築かれ、初めて盆地内に大和王権が入ってきたことを示している。
 そして亀塚古墳が球磨川の南側に位置する事から、襲国の勢力により前方後円墳が造られたことが分かる。大和王権下にあった襲国の勢力が、景行天皇熊襲征伐における巡幸経路と同様に、小林(夷守)方面から岩瀬川を遡り白髪岳の麓を通過して、球磨盆地に入り込み、その入り口に位置する錦町西に、球磨盆地に初めての前方後円墳の亀塚古墳を築いたのである。
 一号墳は全長45m、後円部の直径25m、高さ3.5m、前方部が大きい。二号墳は全長45m、後円部の直径33m、高さ3.5m、後円部に比べ前方部が小さい。三号墳は全長50m、後円部の直径25m、高さ3.5m、と推定され、変形が著しく円墳二基に分断されている。このような前方後円墳は、球磨盆地内を含めた南九州中央部において、亀塚古墳群以外に存在せず、亀塚古墳群はその南限でもある。
 ところで近年、球磨盆地から加久藤峠を隔てた、宮崎県えびの市の島内地下式横穴墓群(五世紀末~六世紀初)から、大和王権との強い繋がりを物語るのに十分な、武器類や甲冑あるいは馬具など、豪華な副葬品を伴った墓が見つかった。ところが、山一つ隔てた球磨盆地ではこの時期既に、それまでの地下古墳から前方後円墳に移行し、亀塚古墳群(五世紀中から六世紀前半)が築かれているのである。    

 この事は、えびの市の島内遺跡と前方後円墳の亀塚古墳を遺した勢力は、同じ大和政権と関係を持ちながら墓制の違いから、前方後円墳による亀塚古墳の被葬者が、より大和王権に近かったと考えられる。また大和王権が北からではなく南から北上し、球磨盆地に前方後円墳を築いたのは意外であった。そして、この墓制の違いは亀塚古墳の被葬者を知る際の大きな手掛かりとなる。

 周りの小林やえびの地域に比べ二倍の面積を有する、東西約30キロメートル、南北約15キロメートルの範囲に広がる球磨盆地を、大和王権が押さえようとしたのが亀塚古墳の出現である。そして洋の東西を問わず、新たに盆地内へ侵入した征服者はほとんどが男であり、被征服者の首長の娘をはじめ征服地の女を娶ることにより、在地勢力との融和をはかり人々の信頼を勝ち得ることができた。そのため盆地に侵入してきた集団とは、軍事的色彩の強い集団である軍事氏族が考えられる。   

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      亀塚古墳群(1号墳)      亀塚古墳群(2号墳)     亀塚古墳群(3号墳)

 亀塚古墳の被葬者とは
 では球磨盆地に前方後円墳を築造した、軍事的色彩の強い集団とは一体何者であろうか。日本書紀の景行紀に、『熊県に到着すると、そこに熊津彦という二人の兄弟がいた。天皇はまず兄熊を召し出されると、すぐに使者に従って参上した。次に弟熊を召し出されたが、参上しなかったので兵を遣わし誅殺された。』といかにも素っ気ない。
 そこで、この兄弟に日向神話の海幸彦と山幸彦を重ねると、兄熊(海幸彦)は『海の民』で、弟熊(山幸彦)は『山の民』となり、別の姿が見えてくる。そして球磨盆地に新たに入ってきた大和王権により弟熊の山幸彦が殺され、盆地内の山の民が排除され服属していく様子を意味していると考えられる。

 この山の民に関して、熊県の次に巡幸する水島の記事に、『山部阿弭古が祖小左を召して、冷水を献上されられた』とあり、山部阿弭古はおそらく熊県における、山の民のであった弟熊(山幸彦)の一族で、実際に山の民が南九州の山間部にいた証拠とする説もある。また熊県は、大和王権の球磨盆地進入に伴い県が設置されたのであろうが、亀塚古墳(1号墳)から直線距離で680mの位置に西村神社があり、神社の古称は『大王神社』といかにも古代の支配者を想像させる。

 そして、『県主』が居たと考えられるのが、球磨で唯一の前方後円墳の存在から錦町西が想前され、また前方後円墳の亀塚に葬られた人物こそ、新たに盆地内に入ってきて県主となった球磨盆地の支配者であろう。

 亀塚古墳の被葬者は久米氏か

 ところで、十世紀の『和名類聚抄』に肥後国球磨郡久米郷(熊本県球磨郡多良木町久米)が記され、古代豪族の久米氏発祥地の一つと考えられている。そして大和王権の軍事部門を担う軍事氏族の久米氏を球磨盆地に求めるなら、大和政権がこだわり続けた前方後円墳を、三基三代にわたり築いた勢力以外に見つからず、従って亀塚を築いたのは久米一族であろう。
  また和名類聚抄に記された久米郷の位置は、球磨川以南の多良木町湯前町や岡原の一部を含む地域を指し、この地域を久米氏が開発したことにより久米の地名となった。そして、クメ(久米)は、クマ(球磨)やクモ(蜘蛛)に音変化することから、元々はクマではなくクメと呼ばれていたとも考えられる。

 地名の他に在地豪族の名残として、多良木町奥野にある中山観音には、平安時代前期(西暦900年頃)の仏像、聖観音菩薩立像(県指定重要文化財)が遺されており、この仏像から久米氏の存在を感じ取ることができる。また球磨郡湯前町に遺されている城泉寺は、久米氏が建立したと言われ、県内最古(貞応年間:1222-1224)の木造建築であり、鎌倉仏教文化を代表する古寺である。境内にある塔の内、七重、九重石塔が国指定重要文化財となっている。

 そして城泉寺近くにある久米熊野座神社は、文献上に初めて現れるのが、蒙古襲来時における祈祷に関するもので、もちろん神社の創建はこれより古く、遡ることは確かであるが詳しいことは分かっていない。そして熊本県と宮崎県の県境に位置する市房山の名も、この山が久米市房の狩り場であったことに由来すると伝わる。

 また球磨地方に関する古文書から、時代は下るが12世紀後半における球磨盆地内の有力者として、郡司の須恵氏を中心に、上球磨の久米氏、中球磨の平河氏、下球磨の人吉氏などの在地有力者が知られ、中でも須恵氏と久米氏は球磨生え抜きの土豪であったと考えられている。須恵氏は亀塚古墳のある錦町を含め、盆地の中央部を占める有力豪族であり、久米氏についても久米郷を領有し須恵氏に引けを取らないほどの豪族で、須恵氏と同族であったと考えられている。 

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   久米熊野座神社                     城泉寺          市房岳

 才園古墳
 球磨川左岸の崖上に位置し古くから四ツ塚と呼ばれ、元は四基の円墳からなる古墳群であったが、古墳の所在地が免田町(現あさぎり町)才園であることから才園古墳と呼ばれる様になった。しかし現在残っているのは円墳一基と、石室が露出し石組みだけとなった才園古墳(二号墳)が民家の庭先に残されているだけである。凝灰岩の巨石を箱形に組み合わせた、横穴式古墳の石室の石組は、現在でも石室内や羨道部に赤く塗られた丹の色がよくの残っている。玄室の奥行き2.22m、幅2.12m、高さ1.20mであるが天井石を失っており、破壊前の古墳の大きさは直径15m、高さ3.5m程度と推定される。
 そして 才園古墳で特筆すべきは、出土した国指定重要文化財の銅鏡である。『鍍金画文帯求心式神獣鏡』や『鎏金獣帯鏡(りゅうきんじゅうたいきょう)』とも呼ばれるこの鏡は、径14.7cm、の白銅鏡の背面全体に分厚く金が鍍金(メッキ)された小型の舶載(中国から輸入)鏡である。このような鍍金された鏡は、これまで列島全体で福岡、愛媛、岐阜の 3例しか出土例なく非常に貴重な鏡である。出土した古墳の築造年代は、後期古墳の特徴である多くの須恵器や土師器を副葬し、その様式から西暦600年前後(古墳時代後期~晩期)に築造された円墳と考えられている。

            鎏金獣帯鏡が出土した古墳
一貴山銚子塚古墳    前方後円墳    4世紀後半    103m     福岡県糸島市二丈田中
   城塚古墳        前方後円墳    6世紀初頭      78m     岐阜県大野町野
   才園古墳                    円墳           6世紀末   推定15m    熊本県球磨郡あさぎり町免田西

 これらの鎏金獣帯鏡が出土した古墳は、古墳才園古墳を除き、何れもその地域を代表する、首長墓としての前方後円墳である。 そして『古墳の大きさは、葬られた人物の生前における、権力の大きさに比例する』という大いなる約束に従えば、才園古墳をどう捉えればよいのであろうか。

 ただこれら古墳は、築造時期がおよそ一世紀ずつ離れ、造られた時期が早いほど古墳の規模も大きくなっている。このことから才園古墳が築かれた時期になると、鏡も以前のような霊力や権威の象徴といった意味合いも薄れ、そのため古墳に副葬されたとも考えられる。

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          才園古墳全景       石室の巨石組   石室内に塗られた丹
  鎏金獣帯鏡はどこから来たのか
  鎏金獣帯鏡について、才園古墳の案内板に、『中国の江南地方で製作されたもので、それも紹興あたりで作られた可能性が高い。その理由として、この地方は銅鉱石・鉱石が多く採掘され、青銅文化と共に鋳造技術が進んでいたこと。製作時期は三世紀までさかのぼる。この時代は日本では弥生時代の末期、つまり邪馬台国と狗奴国の対立時代であり、この鏡の所有者と呉の国との交流による舶載鏡である可能性が極めて高いとされる。』
 この説明は、戦前に発表された仮設に、『久米は球磨であり、久米氏とは球磨人であり肥人のことである。また久米氏は南九州の大部族である肥人にして、魏志倭人伝に記された狗奴国とは、久米氏の本拠地である。』この仮説は、現在でも地域の歴史観に大きな影響を与えているが、肥人(こまひと)と球磨人あるいは熊襲・隼人と言った南九州の部族を全て同一視しており、地域の状況を理解してないようである。 

 このような案内板の説明や仮説で疑問に思うのは、人吉・球磨地方を魏志倭人伝の言う「狗奴国(くなこく)」の候補地と考えるなら、3世紀の球磨は邪馬台国と対立しており、女王卑弥呼に匹敵するくらいの力をもった国である。その後、卑弥呼が亡くなると『卑弥呼以って死す。塚を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人。』と記され、人吉・球磨地方において、径百余歩と記された弥呼の墓に匹敵する様なものは見当たらず、この地域における墓制は、五世紀中頃に亀塚(前方後円墳)が出現するまで、南九州と同じ地下式古墳であった。そう考えると、そもそも球磨盆地を狗奴国に比定すること自体に問題があるのではなかろうか。

 また邪馬台国の女王が魏の皇帝から銅鏡百枚もらったのに対し、狗奴国の男王も邪馬台国に対抗上、中国南部の呉を後ろ盾とし、女王がもらった鏡に負けないくらいの鏡(鍍金獣帯鏡)を下賜された。そう考えるなら三世紀の鏡が、西暦600年前後に築造された才園古墳から出土したのであるから、鏡の製作年代と古墳に副葬されるまでの間に300年間の開きがあり、このような長期間の伝世が可能であったのか。あるいは呉から下賜されたのではなく、古墳の被葬者が他集団がら鏡を入手し、それを副葬した可能性もあり疑問が残る。

                    「古鏡のひみつ」より    

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   鍍金獣帯鏡(呉鏡)     呉の鏡          魏の鏡 

 魏の鏡作りの特徴は、前漢後漢の銅鏡のデザインを復古して使用することである。

 呉の鏡は、長江中・下流域を主に盛んに制作され、多種多様な神獣鏡が制作された。  

 

  鎏金神獣鏡と大和王権
 そこで才園古墳出土の鎏金獣帯鏡について、中国の鏡の研究者である王士倫氏によると、三国時代(3世紀)に中国の江南地方(呉の領域)でつくられたものという。そして鍍金鏡は中国でもたいへん貴重なもので、このような鎏金神獣鏡は中国では後漢時代(25-195)や六朝時代(220-580)に見られる特徴であり、中国で三世紀ごろの鏡を元に五世紀代に鋳型をつくり、新たに製作された踏み返し鏡である。それが球磨郡もたらされたとの見解である。

 そうすると五世紀に作られた鏡であるから、魏志倭人伝の記事にとらわれず、才園古墳の築造年代とも近づき、大和王権との関係で考える必要がありそうである。しかし実際に大和から与えられたのは、五世紀中頃から六世紀初めにかけて築かれた亀塚古墳の被葬者であり、その後、同じ久米氏の才園古墳の被葬者に伝世された。

 前述したように鎏金獣帯鏡は非常に貴重な鏡であり、大和王権の中枢数部で保管していたとっておきの鏡で、王権にとって重要な相手に対し配布したのである。これを渡された古墳の被葬者は、江田船山古墳(熊本県)の典軍曹人(文官)や稲荷山古墳(埼玉県)の杖刀人(武官)のように、大和に出所し官人としてその活躍が認められ、この鏡を下賜されたのであろう。

 この時期に球磨盆地でこれだけの扱いを受けとすれば久米氏であろう。久米氏は大和王権で軍事部門を司る氏族であり、出土した馬具の他、鉄刀剣 大刀、刀、刀子、剣など合計すると十二~十三口分が出土し、これら多くの刀剣類は、古墳に葬られた人物が武人であったことを示しており、出土品からも軍事氏族としての久米氏が古墳の被葬者として想定される。 

 

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      鉄刀         大形の鋏       金環(耳環)

 才園古墳の出土品から分かること
 才園古墳からの出土品として、鏡の他に多くの馬具、玉類などの装身具、直刀、刀子、土器類など全体で130点以上の遺物が出土した。これだけの副葬品を有するなら、一般的に前方後円墳に葬られる程の有力者であったことが想定されるが、出土したのはさほど大きくない円墳からであり、従来の大和王権の規定におさまらない勢力が存在することを示している。

 そして才園古墳の場合、多くの馬具類を副葬していた事に特徴があり、轡(くつわ)四種四組八個、杏葉四種十二個、雲珠五種二十八個、全部で八セットの馬具に相当するが、鞍金具(鞍が出土していない)、鐙(あぶみ)など不足する馬具もある。これは全国でも最多クラスの馬具の出土量である。なかでも金メッキを用いた、杏葉や雲珠といった製品は、技術的に盆地内での製作は無理であることから、直接朝鮮半島から入手したとも考えられる。

 大和政権は、五世紀には朝鮮半島へ、鉄や先端技術と言った富を求めて軍事出兵しており、五世紀中頃に錦町に亀塚古墳を造った久米氏も、大和王権と共に朝鮮半島に渡り、これらの馬具類を手に入れたと考えられる。その後、馬具類は才園古墳の被葬者に伝世され、さらに被葬者自身の馬具も一緒に副葬されたため、才園古墳から出土した馬具類には年代的に幅があり、この馬具と同様な類似品が、五世紀後半から七世紀代(飛鳥時代)にかけての古墳から出土したものに見らる。このように才園古墳の副葬品は、長い期間にわたって、一つの古墳に追加合葬されていったのではなく、古くから伝世されてきた宝器が、ある時期になって一斉にまとめて輻葬されたと考えられる。

 その他の出土品として、鉄製の大鋏(全長37.3㎝)は、日本式の握り鋏(はさみ)あるが、その大きさから人に用いたのではなく、馬の威容を整えるために、立髪や尾を切り縮めたりするために用いられ、朝鮮半島では多く出土しているが列島内では珍しい。また鉄玲については、大小の二種9個が出土し、馬の胸や尻付近に装着し、馬を飾るための鈴と考え馬具に含まれる遺物である。

 これらの出土品から才園古墳の被葬者は、自身の馬を各種の装飾品で飾り立てることに拘りをみせ、馬に乗ることを好む人物であったと思われる。そして、これらの副葬品に対し、金環(耳環)は二対四個出土(後に一個行方不明)していることから、二体の人物が追加合葬され他と考えられる。また、この被葬者は大和王権とも良好な関係を持ち、亀塚古墳を築いた久米氏の後裔であろう。

 このように亀塚古墳の存在は、才園古墳の被葬者を知る上で重要な手掛かりを与えてくれる古墳であり、これら才園古墳の出土品については熊本博物館に展示されている。 

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 馬具の名称       轡、辻金具      馬鈴、辻金具、杏葉

   久米氏が、あさぎり町に移動した理由。
 これまで見てきたように、亀塚古墳群の被葬者は久米氏であり、所持していた鍍金神獣鏡は、久米氏の後裔である才園古墳に葬られた人物に伝世され、そのため才園古墳から出土した。ところで錦町で前方後円墳を築くほどの豪族が、錦町の亀塚古墳から直線距離で5.2㎞東に移動した、あさぎり町に何故小円墳を築かなければならなかったのか不思議である。
 これだけの実力者が移動するにはそれだけの理由が必要であろう。まず考えられるのが、年代的に同時代の『筑紫磐井の乱』(527年)である。錦町の前方後円墳群が築造停止した6世紀始めに、北部九州で筑紫磐井大和王権に弓引く、磐井の乱と呼ばれる内乱が勃発している。
 この時、久米氏(久米一族)も磐井側に付いた事が考えられる。その結果、球磨の久米はあさぎり町への移動を余儀なくされ、出土品から首長墓である前方後円墳に葬られる程の力を持ちながら、大和王権によりその築造が許されず、才園古墳の様な小円墳に葬られたのであろうか。この時期、球磨盆地の久米と同じように、久米氏の惣領である近畿の久米氏も、歴史上から姿を消すなど久米一族に、一体何が起こったにであろうか。

 次に考えられるのが、古代豪族の多氏の球磨盆地への進出である。JR人吉駅の裏の断崖に掘られた横穴群(大村古墳群)が彼らの墓域であり、6世紀から7世紀初めにかけての横穴が26基掘られ、横穴の入り口には多くの浮き彫りの絵が遺されている。
 大和王権を後ろ盾とする多氏が、『磐井の乱』を期に人吉(大村)に入植し、その後次第に球磨盆地へ浸食していき、前方後円墳が築かれた錦町にも、装飾を持つ横穴(京ヶ峰横穴)がみられるようになると、両者の間に軋轢を生じるようになったのか、あさぎり町へと移動した。

 

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   # 鎏金獣帯鏡  # 久米氏 # 球磨郡